20210407_記録、難民について、誤解はどこから

 

 

 

気持ちを保つために、お菓子の写真などを挟みながら…
スクール後に散歩した通りで艶々の果実を見上げたことや、美味しかったバニララテを思い出しながら…


 

こんなに文字を連ねているのに問題が書き終わらない。

(長年に渡り社会が抱えてきた問題なのだから、そうですよね)

 

先日、オンラインで難民についてや、入管法改正案の問題点についてなどの情報発信があり、拝見しました。

 

国連大学前での座り込みをしていた方々についてのお話を聞きながら、とても現実的に認識の差異や意識の変化を見詰めたように思います。

 

2004年、私はまだ自分の生活や体調を整えることに精一杯で、ほとんど絶っていた自身の表現としての絵や制作を、今一度取り掛かろうかと動き出した頃。

 

母国からの迫害から逃れて日本に訪れ、しかし難民認定がなされずに仮放免の状態をつづけていた二家族の話。

難民条約を掲げる(当時ポスター掲示もあった)国連大学前で定住権を求めて座り込みをしていた。

 

難民条約をもとに各国が条件とするところは、難民条約が定める一般的定義に当てはまる者すべてを難民として認めている。

しかし、日本は個別の事由というところにこだわり、特定のグループのリーダーではないとして迫害の恐れがないと入管の裁量で判断し、難民として認めず。

(トルコでは軍に家屋を燃やされたり、クルド語を国会で話したことを理由に国会議員が逮捕されるなどしていた状況があるにも関わらず)

 

※ 後にも触れますが、国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所の認定基準手引きに、印象的に感じた文面を先に紹介しておきます。

「難民の地位がその者を難民にするのではなく、認定は難民である旨を宣言するものである。認定の故に難民となるのではなく、難民であるが故に難民と認定されるのである」…


 

日本では、難民として認められない方々は、収容されるかあるいは定期的に仮放免申請をし、認められなければ収容されるという恐怖を繰り返し感じながら生活を送る。

 

(初めて入管前での抗議を目にした支援者は、その声を荒げる様子を率直に恐いとも感じ、けれど、収容されている仲間を想う真剣さなのだと理解し、普通の生活を送れるはずの方が収容されるその制度を、深刻に考えたそうです)


 

当時、私の周りに、”難民とは”という疑問に、なにか執拗に批判的で違法な権利主張だと吹聴する方がいたのを覚えている。

意識したつもりはなくても、長い間、解らないからとこうした事柄から距離を置いてしまった自分を思う。

 

支援者の方が見守っていた仮放免の申請時に、申請が認められずに父親と息子さんが収容されてしまい、母親と娘さんと引き離され、収容された二人は翌日に強制送還されてしまうという事態が生じた。

これを当時は、大手メディアが一斉に報じた。

 

前日までご家族で仮放免という形ではあれど、日本で生活していた方たちが、突如引き離され、裁判を受ける機会もなく送還されるという、理解し難い対応に衝撃を受けた。

(大手メディアが大きくこのことを報じた当時の報道の在り方と、今を比べ、驚いた感覚を合わせて深刻に思う)


 

報道を受け、世論の注目のもとで、残されたご家族が強制送還を免れ、移住先を見付ける手立てがとられたと。

その後の様子を、写真付きで紹介いただき、また別の衝撃を受けた。

 

それぞれのご家族の移住先、カナダ、ニュージーランドでは、立派な一戸建ての家具付き住居が用意され。

住民として迎え入れられ。それぞれのご家族が(強制送還されたお二人も後に移住し)、トルコ料理店を経営し穏やかな笑顔で写真に写っていた。

(両国では、当たり前に働き、生活をし、そこで人間関係を築き、税金を納め、社会貢献する地域の一員として日々を生きる彼らの姿があった)


 

そこで、気付き直したはずの、私自身の中にある”難民”という言葉に対する認識の歪みを、知った。

 

何かの理由で母国から逃れ、訪れた先の国籍を持たない方の、移住を認める、難民という制度。

難から逃れ、困難を背負い、守られる権利のある民を、日本は問題のある人物のように捉える。

 

そして、支援者の方も指摘していたけれど。

日本は、在留許可のない方を、”不法滞在者”と呼ぶ。

 

どんな理由があり、そこにどんな想いがあり、なぜビザを失ってしまったのか、あるいは許可を得ることができなかったのか、または許可を得る前なのかを、関係なく、”不法”と呼ぶ。

じゃあ自分は何なのだろう。

たまたま日本で生まれただけだ。

 

今更ながら、本当にカルチャーショックです。

 

(次の投稿へつづく)