振り返り日記というタイムラグのある投稿ですみません。(3/14に書いた日記です)
寒かった。寒かったのです風が強く吹き荒んで。
そのため長く湯に浸かってラーメンをお鍋に入れて食して温まっていたらこんな時間。
眠いのです。
やっぱりリアルタイムで(せめて数日内に)投稿しないと、と思っているのになかなかできない。
書こうと思ったこと色々あったけど、日が経ってしまい、振り返り日記。
…を書き出す前に、今日の日記。
(あれ)
いや、眠すぎるので振り返り日記はまた後日。
(おや)
スクールと必要な予定以外は(あと散歩以外は)外出控えているのだけど。
今日は見たい映画があって、午後の予定の前に寄ろうと思っていたのに、家を出るのが遅れてしまい上映時間に間に合わず断念。(なのでリベンジします、映画『シャドー・ディール』)
せっかく早めに出たので、夕方に寄ろうと思っていた写真展に先に向くことにして。
(一駅だったので歩いて行けた)
そこから移動して、秋葉原に。
実はときどき、行けるとき参加させていただいています。カウンター。
(勝手に個人で行ってるだけですけど)
(情報届けてくれる方ありがたい)
少し話逸れるんですけど。
ミャンマー現地の報道機関を取材した記事があったのですが。
何か起きる気配というか懸念を感じる中、実際クーデターが起きてしまったときに。
その報道機関内で、「軍事出身のスタッフは大喜びだった『選挙で不正が行われたのだから当然だ』と、軍事が流し続けていた説を信じていた」と。
そして今、ミャンマーでは治安部隊が武器を戦争用のものに持ち替えて、市街地で実弾を乱射するなどして、平和的な抗議者を(映像を見ると抗議をしてもいない国民を)弾圧して、命を奪うまでしてしまっている。
とても恐ろしいことです。
(私自身が勉強してこず学が乏しく恥ずかしいのですが)
独裁的な権力側の都合で歴史が修正され、その情報を信じた者が、それを正義と信じ非道な振る舞いをしてしまうことが、今、起きているということ。
エスカレートしてしまわぬように、歴史修正主義や差別的な発言や差別を煽動することは、止めていかなくてはいけないのだと、改めて思う。
それと。宇野重規さんの『民主主義とは何か』を読み返して、思う。
ジョン・スチュアート・ミルが主張した言論の自由。(ちなみに差別は相手を傷付ける目的で行うものなので言論の自由にはあたりません)
少数派の意見が正しいとすれば、それを抑圧すれば、社会は真理への道を自ら閉ざしたことになる。仮に少数派の意見が間違っているとしても、批判がなければ多数派の意見は教条化し、硬直化してしまう、というもの。
それぞれの立場で批判し意見を交わすことが議論を深め社会の発展を促すと。
それでふと、思ったのは。例えば差別感情も。差別した相手の持つものが真理だったときに、差別をすることで差別した側がその真理を知る機会を自ら手放し、自身に利する事柄を失うことがあるのではないかと。
平等に人権を持つ者が、それを忘れ、染みついた偏見で相手を攻撃することを正当化してしまう、差別。時に独裁的権力者がこの心理を利用して、敵を作り上げることで自らの求心力を高め忠誠心を煽ぐ。
このことに気付くことなく、煽られて攻撃を向けてしまうのは、非常に虚しいですね。
もっと書くべきことたくさんあるのですが。
睡魔で書けそうにないので、また後日。
すみません。
皆さん、温かくして休んでください。
健康に生きましょう。
また。
[追記]
ちょっと後半部分誤解を生む文になってしまった。
書きたかったのは、誰かに対しての個人的な好き嫌いの感情でなく(それにも同じことは言えるかもだけど)、集団的に誰か(特定の集団など)を嫌悪する感覚が芽生えてしまうことは、意図して権力などに仕向けられたものである可能性を持っていて。
そうした差別的感情は、相手の平穏に生活する権利を侵害するだけでなく、互いに自然に交流すれば得られたかもしれない豊かな明日を手放す行為なのだろうと、思ったのです。
そしてエスカレートしてしまうと、そうした次元でなくなり、災害時など心理的不安の状態には、感情の捌け口となり最悪の事態を招いてしまう危険があること。
権力者以外の特にはならないし、差別は無くしていかないといけないと、改めて思ったのでした。