20210110_0111_0112_diary_カーテンと、ケーキと、市政と

(書いてるうちに日を跨いだので、振り返り日記...)

 

(2021/01/10、11、12)

明るい日差しの昼日に外を歩くのは、やはり健康に良いのだな、と。

 

 

と思いながらも、世の状況が状況なので、スクールの一部をオンライン受講に切り替えさせていただくことになり、そのためのヘッドセットを購入して来たのでした。

もう一方のスクールはオンラインというわけにはいかないので、受講期間と照らして相談させていただいた上で、自習期間を設けて疑問点をまとめたうえで、相談させていただく機会として日数を絞って受講させていただくことに。

 

もっとスラスラ習得できることを自分に期待していたので、このところちょっと不発というか、そりゃそんなに簡単には身に付きませんよね… という悶々とした状態でしたが。

学び始める前よりは習得したのだという考えに切り替えて、今一度気分一新で頑張りまする。むーん。

 

そうだ、先日、スクールの帰りに遠回りをしていつもの通りに向いて、BIG ISSUEを買わせていただいて来ました。

この日も昼日が眩しいくらいで、でもものすごく風が冷たくて寒かったのに、かじかまないように足を動かしながら、いつもの方が通りに立って販売してくれていました。

 

元旦号はジョン・レノンが表紙で、梨木果歩さんのインタビュー記事もありました。(示されていたのは私には馴染まない丁寧な在り方だったけれど)

 

やはり、BIG ISSUEは必要な情報が詰まっていると思う。

 

昨年のスヌーピーが表紙の号も、明るい黄色の背景に、コピーが「こんにちは! 絶不調」ってとってもスヌーピーらしい言葉で。愛しさ溢れて良かったですよね。

 

唐突に襲ってくる空虚や孤独感や焦燥感、感情とはそういうものだと知って、途方に暮れる自分の機嫌を取る、コントロールする。ただその日をやり過ごすことが出来れば、いつか知れず自然と前を向く。そうした人として生きるヒントを灯してくれる言葉。

 

華々しい世界に気分を向上させる雑誌の意味ももちろんあると思うけれど。どうしても、綺麗事や上辺だけの語りに空々しさを感じるこの頃に、必要で身近な対話のように受け取ることのできる冊子。

(ファッション誌でも、そっと社会性を添えているものも中にはあると、最近気付きました)

 

色々な場面で格差が際立って、不公平さは深まっていく。『21世紀の資本』で示されていたような、格差拡大で社会が破綻をきたす気配を、徐々に身近に感じてしまう。それでも、予見されているそれを、多くの人は気付きもせず上だけ向いていて。そこに虚しい溝を感じたりもする。

滞った問題は部分的に取り上げられて賛否を浴びるけれど、問題の多くは取り立たされもせずに埋もれていく。

 

なんてモヤっとした感覚を強めながらいたので、年明けをさほど祝わずにいてしまって。

なんとなく気分も平坦で上がらず、だったのですが。

その冊子を買いに向く途中で、いつもの通りで、なんと…

 

青木理さんをお見掛けした… 気がする!  わー

 

お声は掛けれず。

「!」と思ったまま後姿を見送らせていただいただけですが。

おみくじで大吉を引いた気分です🎍✨🌅

 

勝手におめでたい気分を味わって、やっと新年を迎えた気持ちになりました。

単純ですみません。

 

(なのに、出演したサンデーモーニングは見逃してしまうという、寝坊クセの不真面目さをすみせん…)

(必要な正しき意見を発信していてくれたと後で知りました、ありがとうございます)

 

(そして唐突にケーキ)

(自分祝いのケーキ)

 

 

本当言うと、上に少し書いたように、世のあれこれに対するモヤっと感が散り積もって、今思えば、まあまあかなりそこそこ不発気味だったんです。

自分の周りでも、なんか気持ち悪い感じがつづいて。

自分に身に起きたことを理解してるのも把握してるのも自分しかいないことは基より解っているのだけど。

昔のことだけど、身内の理解力というか解釈の歪みがすごくて色々事実が歪まされることが多かった。

(身体的理由で治療を受けていて、その病院の領収書も見せて渡したのに、勝手に精神病院にかかってたのだろうと妄想されてたり)

昔に私の身に起きたことを、ほんの数時間だけど近くで知っていたはずの幼馴染が、つい最近になって、急にそのことを“覚えていない”と連絡してきたり。

まあ、本当に解らなかったのかもしれないし、忘れたのかもしれないけど。

 

他にも、友人から、かつて私が体調を崩す引金にもなった場所へ関わることを依頼する内容の連絡があって。依頼を受けられなくもないが、問題のある場所だと理解しておいてもらいたいと言及したのに、そのことに関しては一言も触れずに依頼内容に関してだけ返信してきたりして。

 

隣で血を流していても、気付かずに、あのとき平和だったよね、って言う人が多いというか、そういう人ばかり周りにいるみたいだな。としみじみ思ったりとか。

最近にしてなぜそういう連絡やリアクションが沸いて出たのか、モヤっとしたり。

 

前にもチラッと書きましたけど、これまでは職場で理不尽なことが起きても、直接抗議して改善されなかったら、断ち切って次へ、「ありがとうございました」と言って去り。問題と向き合うことを止めてしまってきたけれど。それはその職場での問題を残したままで、またいずれ他の誰かに同じことは起きて、というかそうやって問題は胡麻化せるとして事態はエスカレートしていくのだと思うようになったので、外にアクションを起こして問題を露見化するというか、こちらの抗議の意思をもっと示す必要があると思うようになったのだけど。

 

労働組合は労働組合で問題を抱えていて。報告書を以て更に明確化された不当さに対しても、対応遅れで問題は解決されずに埋もれていく。

住んでいる市での民主主義に背く事柄に関しても、その重さを市議が認識しないまま。市民の会に対する偏見を生む表現が出回ったまま訂正されずに、流されていく。

 

よくあることだよね、といえばそうなんだけど。

 

こっちもそんなに時間は持て余してないし、だから面倒だわと放置してしまうと、やっぱ何も変わらないし、面倒でかったるくても声に出していかんとならんのだよな。と。

無関心で危機迫まる現状にも問題に眼を瞑って指摘に対して冷笑してきた社会に対しても、必要なときに常に言葉で発信してくれるジャーナリストが居るのだもの。言葉にせんといかんな、と確かめて、思い直したりする。

だから、青木さんにばったりお会い出来たの、タイミング的に本当良かったんだな… と思ってます。

(見掛けただけだけど)

 

 

 

 

と、言う訳で。

面倒なんですが。(とか言ってちゃダメなんですが)

 

市民センターと図書館の件で、それ違うよな、と思ってること、ここにまとめておきます。

 

けっこう前に日記として書いた後。

(市民の会の世話人会と別の勉強会、そして市議会傍聴の後)

 

SNSである政党のチラシ画像を見て、驚いたのです。

(チラシは市中に投函もされたようでした)

あのチラシの記述だと、市民の会が多額の費用を要する案を強制している印象に読めてしまうのですが。

(というか削除されたSNS投稿には、まさにそうした表現で批判されていたわけですけど)

 

令和2年に実施された市のアンケートでも分けて記載されていたように。《市民の会案(CLT木造縦増築案)》と《2案とされた上階増築》は別のものと捉える必要があります。

 

市民の会案は前例のない建築方法で、耐震数値などが手計算でしか算出できないために、公共施設として各条件をクリアするに現実的でなく、市は対応不可としたようで。そこで市が日建設計コンストラクションマネジメントに委託して、市民の会案と面積は同じながら、一般的な建築方法(恐らくCADソフトで積算もできる方法)で柱を多くするなどして構造を変えた案を検討した。これがアンケートでも別で示された《2案》とされるもの。

 

市民の会が提案したものは想定費用20億円のものであって、30億円かかる案の実現を強要しているという事実はありませんでした。

 

市の考え方としては、市民の会の案を市側が汲んで対応したものが上階増築案なので、それらは同じ案だという捉えがあるのでしょう。

しかし、多額の費用を要する事業を市民団体が強要しているという誤解を生む表現は、訂正してきちんと詳細を示す必要があると思います。

(そもそも案の実現を迫っているということもないことは、以前の日記にも記しましたが)

 

それと、市民団体が案について“業者まで指定”したと発信されてしまっていますが、確認したところそのようなことはなく。なぜそのような発信がされてしまったか謎です。

 

この捉えの歪み、批判が及ぶ表現を訂正できないことを問題だと感じています。

それと、以前から述べているように、市民を置き去りにして事前説明もなく、閉鎖的に内々で検討され、更にその別案が決定事項のように広報で発信されたという、議論なき強行な姿勢が問題だということ。

 

私はずっと、改築案について具体的にはどうという希望は持っていないけれど、現状の独裁的な進行に問題を思うことと、誤解を招く表現で市民団体へ批判を向ける表現の在り方を問題だと述べてきたのですが。

 

(※追記、今読み返すと、自分のリプの抜粋が雑すぎて訳わかんない感じになってますね)

(↑確認したい方いらしたら、私の投稿自体は残ってるので、そちらを)

 

(...いないと思うけど)

 

---------------(Twitter) (チラシについて)

臨機応変に水回りの改修を事前に承認していた。

市民の会の案に掛かる実際の費用が想定を超えるなら、説明や再検討について連絡が必要。

(面談していたのだから説明の機会はあった。しかし市長から具体的な説明はなし)

議論の無いプロセスが行政として問題。

これを容認する記述になっています。

---------------

という市議へのリプに対して、返ってきた言葉は。

 

---------------(Twitter)

「市民の会の20億円は業者まで指定のもので特殊なので、行政が増築するなら30億円以上なのです。増築要望は市民の改定案で間違えていません」

---------------

というもの。

 

経緯をとばしてザックリ掴めば、行政側の通例に沿って市民の会案の面積を叶えるとしたら30億円の費用がかかる、という認識になるのは、それはそうなのかもしれませんが。

市民の会が30億円かかる案を強行した事実はないのに、強要しているというような批判的な表現で政党が発信してしまうことの、影響力を認識していただけませんでした。

 

“業者まで指定” という点が初耳だったので、会の方に確認したところ、業者指定などの事実はないとのことでした。

 

いったいどこでどうしてそう話が歪んでいったのでしょう。

 

該当の市議も同席した世話人会に参加さえていただいた際にも、意見させていただいた内容として。

私自身は、改修について概念的理想は持っていても具体的な建築案は持っていず。

たとえ今回広報で示された案が、私にとって好ましいものであったとしても。

開かれた議論もなく、対話を持たず、批判に応え説得をするでもなく、一方的強行姿勢で税金の使用方法が決まってしまうことは、民主主義においても、政治という場においても、正しくなく、非常に危機感を持って捉えるべきことだという考えを述べているのですが。

 

---------------(Twitter)

決定プロセスに問題があること、事実と異なる表現で批判が起きていること、その行政の在り方が、政治的でないということに問題を感じて意見しているのです。

---------------

というリプへの返信にも。

 

---------------(Twitter)

「お怒りを私にぶつけたいということなら、直接お願いします。」

「丸々受け入れることは全市民に対して無責任な判断となりませんか?」

---------------

という返答で。

私が市民の会の案の実現を迫っている訳でも、市民の会が会の案の実現を強要しているわけでもないのですが。

話は一向に通じませんでした。

 

(SNSのリプでやり取りしていましたが、それは直接に当たらないようです)

 

そして、延々と市の改定案について語られたうえで、私が改築案に対して具体的な希望を示さないことに関してや、対話が成り立たないことへの言及のようですが。

---------------(Twitter)

「ご理解不能なのはその意思がないからではないですか?」

---------------

という返信でした。

 

政治の在り方や、影響力のある立場で誤解を生む情報発信をして、訂正しないことについて問題を指摘したのですが。

批判的なマウントリアクションが返ってきただけでした。

 

先日も少し書きましたが、別におおまかに言えば、市の職員の給与や労働実態についても会議で言及したり、市政にとってプラスの動きを取る面もある市議ですし、いずれ話せば解るとして、実際に批判にさらされている会の方の中にも、あまり表立っての指摘はせずにいようとする考えを持っている方がいるようです。

 

でもね。

やっぱり気持ち悪いですよ、こういうの。

 

いま時間を置いて纏めようとこれまでのリプなどを確認したところ、またしても該当の投稿は削除されていました。内容が誤解を生むものであった等の説明もないままです。

 

なんなんですかね。

 

 

 

先日、Twitterである東京新聞の記者の方の投稿を拝見しました。

---------------(Twitter)

「図書館で、 #路上脱出ガイド を見付け食品配付に来た人と話しました。映画「 #パブリック 」みたく、図書館で暖を取るうちに本を読むようになったそう。「大学に進めばよかった」というから「今からでは?」と聞くと笑みがもれてほっとした。「図書館は福祉機能がつまっている」の言葉が印象的でした。」

---------------

というもの。

 

いまコロナ禍において、積極的に生活保護を受ける権利(人権)を発信して、物資配付などにも参加してくれている国会議員の姿を見たりして。問題は理不尽に唐突に誰かに襲い掛かり、その理不尽な状況から救われ、人として当たり前の生活をする権利を誰もが有していることを、示される機会が増えていることを、ともて有難く嬉しく思いますが。(状況は困難で軽く受け止めてはならないものですが)

 

これまでどうしても、“行政への相談”というものはハードルが高く感じられる背景があった。

 

隔てるもののない、フラットな状況で、ふとした時に互いを気に留めて、必要なときに声を掛け合える環境や、ふと知識や情報に触れて、歩みを変えるヒントを得ること。

特別に用意されたものではなくて、生活の中に馴染んで、人と関わる場である。

図書館を含めた公共施設の意義って、そういうことなんだろうと思っています。

 

車椅子で移動出来て、安心して過ごせる構造でもあって欲しいし。

でもぴかぴかでお洒落なリゾート施設のような敷居の高いものでなく、衛生面も担保されながらも、誰もがフラッと立ち寄ることのできる空間である必要があるのだろうな、と考えます。

 

という、私の理想論はまあいいとして。

 

社会の基礎を培うことにおいて大切な意義を持つ公共施設の検討をするに、なぜ市民団体への批判が及ぶ表現を纏わなければならないのか。

政治において一番重要と思える、開かれた議論と納得のいく説明を怠った市政の現状を、重く捉えることができないばかりか、指摘も攻撃とみなされてしまい、話す余地がないのか。

 

 

めちゃめちゃ面倒臭いんですが。

あのマウントリアクションを見ると、私のような立場の者が指摘したり意見したりしても、その投げかけの内容は冷静に受け取られることもなく、対話が成立しないので。

身近な、或いは、該当の市議が目上だと感じる者、対等と認識できる人物に、状況を理解していただいて、何が問題なのかを考えていただく機会がないと、何もならないなと感じ、けっこう前になりますが問い合わせる宣言もしていたので、お尋ねしてみることにします。

 

面倒。

 

あ、愚痴ってすみません。

 

 

あ、めちゃ話逸れますが。

先日、地上波でSuiseiNoboAz『3020』が紹介されたそうですね。

一視聴者として、本当、世に届いてほしいと思ってます。

こんなときだから余計に。

こんなときでなくても、いつでも。

じゃ。

健康に生きましょう。

また。

 

 

あ!

明けましておめでとうございます。(遅)

お年賀まだ描けていなくて、ごめんなさい。

寒中見舞いというより、春になるかもしれませんが… 何か描きます。

不躾ですみません。

 

よろしくお願いいたします。