振り返り日記[20201022~1023] vol.1

洗濯と掃除しかしていないのに、もう17時半…

そして日記を書き終えたらいったい何時になるのか。

やろうとしていたことはまだまだある。

うーん。

(電車移動したり晩御飯食べたりして、結果夜中になりました...)

 

 

レモンパンケーキを焼いたときと似た印象の眩しい日差しと澄んだ空気に満ちた休日。

いつもの通りのプラタナスは黄緑の葉を一層黄金に近付けて光を纏っていて。

電車を降りてから渡った歩道橋からも、澄んだ夕日が照らし上げる景色が見えて眩い。

 

ものすごい良い天気。

 

 

ところで今日は、チケット買いそびれているうちに完売になっていたために、試合に向けず。

スタジアムに思い馳せながらいたのです。

そしたら、ヤット(遠藤保仁)さんが直接FKでゴール⚽て!!

わーーー 見逃してしもたやないかい!

 

いつもスコアだけ見ていて。最近1-0とかで勝利していたように思うので。鉄壁と思っていたところを崩されたのかとちょっと心配したのですが。

同点ゴールがヤットのFKって、それは上がるわ。そこからの2ゴールで逆転勝利。

すごいわ。熱いわ。見たかったわいー

スタジアムに向いた皆さんへご褒美ですね。

 

(そういえば、磐田のアウェイ東京戦、久し振りにスタジアムに行ってきました)

 

あ、書こうとしていた内容から思い切り脱線しました。

(長くなりそうなので、2回に分けます)

 

 振り返り日記 [vol.1]

 

先日、定期的に向かう渋谷の交差点を通りかかったら、肌寒くも良く晴れた秋空の下で、いつもの方が新刊を販売しておりました。

ビッグイシュー(the BIG ISSUE)。

今回はスペシャルインタビューがREDIO HEADだよ👀

 

私はあんまりメジャーアーティストを知らないので。

レディオヘッドも名前を聞いたことがあるくらいで。

何ちょっと面白そう☝ と、買わせていただいて。

(あ、蒼井優さんのインタビューあった前号も“面白かったです”ってお伝えしました)

(その後、勢いで予定を変更してタワレコへ向きました)

(“初心者にも聴きやすいけど、聴きやす過ぎちゃうと苦手かも” という私のリクエストに対してお勧めを教えてくださった店員さんありがとう)

まだちゃんと聴けてないのだけど、こうした曲との出会いがとても楽しい。

 

REDIO HEADのインタビュー記事につづいて、読んだのは今回のテーマ『変われ、スポーツと社会』。

アメリカンフットボール試合前に、人種差別に抗議の意を示した選手の写真を見出しのトップに、スポンサーの影が大きくなったスポーツの世界で、抜け落ちてしまった『社会』を考える機会を持ち、声を上げ始めた選手たちに注目していた。

(はたまた、一定の距離を保ちプレーを進めるポジショニングスポーツを、コロナ禍で改めて注目したという別の角度での捉えもあって、賑やかな文章)

 

 

それから、映画監督オリバー・ストーン氏のインタビューもあった。

(先日、プラトーンの一場面を思い起こしていたので、ふとご縁を感じてしまった)

 

「果たして敵など本当にいたのかと、いま米国人は自らに問わなければなりません」

という言葉が印象的で。

敵というものを、意識することを誰かに仕向けられて、武器を手に取り攻め込んでしまう戦争という大罪について、今の世に色濃くなりつつある差別やデマ煽動と照らし合わせて考えようと思う。

(まだ一部しか読めていないので、改めて全編読みます)

 

 

ビッグイシューって。

おもしろいですよね。

 

ちょっとおかしな言葉の使い方になってしまうけど、なんか、リアルタイムなドラマレビューって感じがして。

(ドラマは人間の織り成す事柄だし、リアルタイムレビューなら現在ということで、直近のインタビューなんだから、そりゃそうなんだけど、えーと)

 

多くのテレビ番組や日常会話が、問題と向き合わない絵空事に思えてしまう分。

ともて身近で現実的なコミュニケーションのように思える。

 

 

それから、22日(木)の夜は、防災センターで行われた推進会議の傍聴に行って来ました。

狛江市人権尊重条例 推進会議の第一回目です。

 

(応募期間を知らず… 遅れて応募しましたが、定員枠が空いていたので入れていただけました)

(告知薄いですよね。気付きません。でもご対応いただきありがとうございます)

 

推進会議のメンバーの顔合わせ…ということろですかね?

検討員会から引き続き推進会議に入った方もいらっしゃいました。

委員の自己紹介と、大まかな今後の予定が確認されました。

 

その後、アンケート調査結果の説明があり、ポロポロと意見が交わされて、ざっくりと議長が意見をまとめたのですが。

 

なかなかの衝撃でした。

先日、まさかの決算特別委員会である市議が放っていた内容とほぼ同等。

 

18歳以上の市民から無作為に抽出したアンケートで、『各分野に関心を持った回答者の割合及び満足度の平均』というものの結果として、『平和・人権』関心の割合が3.2% で 21位、満足度が2.63% で3位という点などに着目し、“狛江市は人権問題への関心がないくらいに問題は無く住みやすい町だ” という話でまとまっていました。

 

いやいやいや。

 

同じ資料内の、あいとぴあレインボープランの策定に関わる狛江市市民意識調査報告書より抜粋の、障がいのある人・難病のある人(18歳未満)対象 計150人 へのアンケート結果で。差別等の経験が〈よくある〉〈時々ある〉と回答した合計は、49.4%

 

この件で、委員のひとりからも意見がありましたが。障がいを持った方の中で、アンケートに答えることができる、自身の意を表現できる人は限られていると。

その、答えられた一部の方の中で、およそ半数が“差別等の経験がある” と答えている。

 

この結果を数字で確認しながら、『差別に関する際立った問題はないですね』と話がまとまってしまうことは、非常に恐ろしい問題だと思います。

 

そもそも差別というものは、マイノリティが被害に合うわけで。

広くアンケートを取って、“関心や問題を感じているのは少数でした、めでたしめでたし” という捉えでは何にもならないですよね。

関心がない、或いは問題を感じない、という多数が加害をしてしまっていないか、差別に気付いているかを考える必要がある。

 

問題を感じていない大多数に着目して、 “差別は無い” としてしまってはいけないのですよ。

 

何度かのシンポジウムや勉強会の機会を経て、私自身、耳の聞こえない方への配慮や想像が足りていないことを今更気付いたし、まだまだ意識できていないことが多々ある。

 

検討委員会でも、知らないことで差別が起きてしまう場面があると、さんざん話されてきたはずです。

 

「セクシャルハラスメントなどは、なかなか被害者が声を上げられない」と、委員の一人も意見していた。普段ハラスメントに関わる相談や企業への研修を行っているという専門家がそう指摘しながら、なぜ推進会議でその問題意識がなされなかったのか…

 

他にも、アンケートの在り方についてなど意見した方など、それぞれは問題について専門的知識のある方が、ある程度揃っているはずであるのに。

非常にふんわりぼんやりとしたまま会が終わってしまった。

 

 

そのふんわりとした話し合いの一方で、議長が主に何度も同じ発言を繰り返していたので、気になってしまった点がある。

 

差別が発生した場所が、公共の施設内なのか店舗なのか、確認する必要があるというものだった。

状況の確認や、どういった場で差別が起きてしまうのかを突き止めることは、対応において確かに重要にはなってくる。しかし、執拗にその点だけ繰り返し主張するとろこに、違和感を感じざるを得ないです。責任の所在を確認したいのでしょうか?

地域全体で問題に取り組み、啓発をするにあたって、そこを線引きする必要があるのでしょうかね?

 

そして、会の意見が全体的に “障がい者” に関することのみに集中していることも疑問でした。(もちろん、このことについての問題は、気付きにくく露見しにくい上に、根深い差別意識が存在する可能性があり、重要だとも思います)

 

施行された条例の、逐条解説については、1ページ目で「平成30年に明るみに出た当時の市長によるセクシャル・ハラスメントに関する問題を受け」と条例の立法事実が明記されていて、とても大切な一節であると思ってます。

ここで、確認されているように、セクシャルハラスメントやパワーハラスメントといった問題や、福祉を受ける権利、生活する権利も、等しく人権の問題です。

 

広く人権について考えるために、『人権を尊重しみんなが生きやすい狛江をつくる基本条例』としたのではなかったか? と、検討委員会での議論を思い出します。

 

しかしながら、今回の推進会議で議長が「人権と言われると、何も言えなくなる」と発言していたことに、認識の差異が現れていて…非常に残念に思いました。

 

検討委員会で議論されたことは、共有されていないのでしょうかね。

 

 

それと、少し話は逸れるのですが。

しきりと障害者という言葉が繰り返される様子を見て、なぜか私は、先日友人と話していた事柄や、学生の頃のことを思い出していました。

 

授業中に、ある生徒が遅れて教室に入ってきたときに、教員がその生徒の服装を横目で見ながら「派手な服装をする人は、精神的に何か抱えている傾向にある、闇があるかもしれない」と、講義の途中で話を変えて、何かの研究結果として説明したことがあった。

 

私はその生徒をあまり知らなかったけれど、そのときの教員のその発言には、違和感を持った。

私の場合、当時(今もか)は、洗濯して乾いた順に服を着ることが多く…うっかり柄と柄を合わせてなかなか奇抜な服装になってしまう、ということもあったし(面目無い)。

目の病気を患ったことのある知人は、色がはっきり見える彩度の高い虹色が好きだと言っていた。

何を綺麗と感じるかなど、服の好みはそれぞれだし、余計なお世話だよな、と思ったし。

その唐突な服装の話題が、明らかに遅れて入ってきた生徒に対しての、教員の評価に聞こえたところも、気味が悪かった。

 

その生徒が例え、心に何かを抱えていたとしても、それを教員が評価する立場にはいないはずだし、多くの生徒へ向けて共感を呼びながら、介入する問題ではないと思った。

 

というか、遅刻をしながら挨拶をおざなりに教室に入ってきた生徒の態度が気に入らず、単にその生徒を批判したかったという、教員のちっぽけなプライドを見た気がしていた。

教員という立場を利用して、生徒への偏見を植え付けたという印象がして、とても不快だった。

 

 

そういうことを、思い出していた。

 

(つづく)