朝の用事があっけなく済んだので、エクセルシオールでお昼を。
セットのコーヒー飲みながら少しやること進めねば... と思ったのだけど、店内込み合ってきて、満席の気配にやや雰囲気ピリついてきたので。
(おかしいなと思って店員さんに声掛けした方も、はっきり事情を説明した方も、どちらも意思表示として良かったんだと思います)
(という感想を、失礼)
場所を変えるか、とお店を出て歩いたのだけど、程良き場所はそう見つからないよね。
涼しいので、そのまま少し駅から離れて歩いて、電柱看板で見付けた『宮本三郎美術館』の文字。
私は何かと勉強不足なので... 検索しました。
戦争画を描かれていた作家さんなのですね。何かの縁かしら? と思い、せっかくなので矢印に従って通りに入って、そのまま美術館へ。
入館料は一般、200円。安っ。
アルコール消毒の後に、体温測定と症状の有無の確認を受けて、更に任意だけど万が一のときのために連絡先を明記して提出。丁寧な管理でした。
絵画を拝見する前に、プロフィールの文字を辿って。時代と照らし合わせようと読み込んだけれど、私は歴史の学が乏しいんだった... あまり掴めず。しかし、絵画の道を行く前に兵隊になろうと学校を受験して落ちていたとか、美術の道に進んで、海外でも活動(制作)していたところで太平洋戦争が勃発したとか。描き手として徴収されたとかの情報を漠然と受け取った。
(記憶力乏しくてすみません)
入口すぐの模写は写実的で筆のあとを残さない細かなタッチの油絵で、フロアを進むとデッサンの他に印象派のような表現や、特にゴッホに似た印象の、空気に色を付けたような表現もあり、マティスのようなデフォルメ表現もあり、一つの作風に縛られない様子が見受けられた。
(↑ 受付の方の説明もあって補足)
戦争画自体は多くないな、と思い受付の方に尋ねると、サンプルの冊子を貸してくださった。
そこで、複数の画家の、幾つもの戦争画を印刷物として拝見した。
何も知らなかったな。
”画家を徴収して描かせた” というところに、最初「え? 記録を残そうとした?」と思ってしまったのだけど。冊子を読んでいくと、「日本兵の死体を描くことは禁止されていた」という記述があった。戦争を描くのに日本兵の死を描けない?
そこでやっと気付いた。
写真でなく、絵でなければならなかった理由。
勇ましく戦い散っていく様、”勇姿” を歴史に残さなくてはならなかったのでしょう。写真のように鮮明で鮮やかな描写でありながら、真実そのままでなく、演出したものを残そうとしたということ。
(そうした中でも画家は、戦争の恐怖や、戦争によって難民となった人々の心境を表す無表情や、暗闇を描いて表現した)
画家は、芸術は、都合よく利用されやすいものですね。
惨劇の中で最後まで挑んだと、どんなに勇ましく描こうとも、人を殺し合うことに変わりはないのに。
プラトーンという映画を見て最も恐いと感じた場面を思い出した。森林での銃撃戦の中で敵兵と間近で対面するシーン。誰ともいえない敵国へ銃弾や手榴弾を向けて交戦しているようなシーンで突如敵兵と至近距離で鉢合わせ、相手の顔が見えたシーン。どんなに理由付けても、人が人を殺しているという事実と命を突き付けられた。
あの映画で見たような、日常からかけ離れた状況に、振り切れた恐怖と闘志と幾多の感情が綯い交ぜになって故障したような狂気は、確かに描かれていたように感じた。
しかし、多くの者は食糧難で餓死したと聞くような、貧しさや虚しさや途方も無さは、描かれていなかった(私が拝見した中ではなかった)。
私の残念な癖で、作家名や部隊について失念してしまったのだけど。
大将(?)が一部の部下を逃がして自死したという歴史を、惨劇に挑み玉砕した場面として描いたと説明のある絵画もあった。
あと、陸軍の依頼で描いたが、結果的に陸軍から受け取りを拒否されたという絵画も紹介されていた。その絵画は後から黒が塗り足され、元の敷き詰められた桜の花弁や頭部付近に灯るように描かれた金色の光が消されたものだったという。そして、その画家 小早川秋聲は、戦犯とされる覚悟を持っていたという記述もあった。
絵画の技術者もそうだが、戦争に関係した小説を読んだときに感じたこと、正義感や忠義や身体能力や様々な能力に長けた若者たちが、勝利や正当な何かを信じて散っていったことの、悔しさと、虚しさと。失われた人生。
技術を売り物にする場合、何かを呑み込んで意に反することも眼を瞑るということは、あることだろう。
(あまりに賛同できない内容のものは私は無理なんだけど)
(それは多くの場合、仕事でなく趣味だと批判されますが)
権力に忖度して、或いは権力に屈して、何かを描く場合に、或いは何か技術を提供する場合に。
どれほどの人がそこに自覚を持っているだろう。
不都合なことを覆い隠すことに、多くのメディアが力を貸していることに、どれほどの自覚があるだろう。
描くときに、歌うときに、演じるときに、話すときに、加担していることを自覚し、小早川秋聲がそう示したような『覚悟』はどれほどの人が持っているだろう。
なんてことを思ったりした。
もう少し遡って、良き夏の名残の日記も書こうと思いながら、長々と9/24を書いてしまった。
あ、ポストカード、どれも宮本三郎画家の絵画なんですよ。
それぞれ、作風もモチーフもぜんぜん違いますよね。
そして、1枚 100円でした。安っ。
クイズ用紙に回答添えて提出したら、もう一枚は無料でいただけました。
学びはまだぜんぜん足りないけれど、良い機会をいただきました。
ありがとうございました。