【モネ それからの100年】横浜美術館へ向いて

久し振り🌼🌼🌼に、横浜美術館に行って来まして。

ご一緒させて頂いた皆さまありがとうでした🍀🍀

 

 

【モネ それからの100年】横浜美術館                                                   

 

先週末。 雨の上がった正午、光量の高い日差しの中、ひんやりと涼しいくらいの風が心地好い連休初日。

 

普段あまり展示の記憶を具体的に留めずにいる私は、不勉強のため作家の歴史も名前も覚えることが出来ずにいて。なので、いつか見た作品が誰のものなのかも不確かなままで、面目ない次第なのです。

昔に、印象派展として観た絵画たちのなかに、モネの作品もあったはずなのだけど。これ、と解るものは、テレビや雑誌でよく取り上げられる「睡蓮」以外はなかったです…。

 

不勉強な私の、取り留めのない感想です。解釈に誤りがあったらすみません。

 

 

 

 

クロード・モネ (Clande MONET) [1840-1926]

 

展示3番 『サン=タドレスの断崖』(1867)  54.0 × 79.0

フレーム全面に均一の配慮で描かれた、コントラストのとても綺麗な、強い日差しの風景。

印象派なので当たり前だけれど、物の輪郭の精密などを追うことのない、筆痕のままに置かれた絵の具が重なり合う表現。(ただしかなり細かい)  草原の草の葉などの反射のハイライトはすっきりとした白が載せられていて。対比で光を失う部分には、思いの外はっきりとした黒があった。

しかし、草の葉や緩急の地面、遠い水面や広がる空のそれらは、とても慎重に忠実に中間色が掴まえられ、色味が再現されていて。眺めると本当にその場に立ってこの風景を眺めた、といったような、場面の印象をそのまま受け取ったような眩しい錯覚を得た。

 

絵を描くときは、理解を深めたく、また解らず描くことはとても困難なため、物の形を近付いて知ってしまったり、角度を変えて回り込んでまで、調べてしまったりするけれど。本当に人が風景をみるときは、実はその物の細部などは見えていないわけで。見えない物を見えないまま。見えている色を厳密に忠実に再現することで。湧きおこる風の印象や清々しい空気や、愛しい瞬間的な眩さまで、キャンバスに掴まえることが出来たのだろうか…  と想像した。

 

 

展示27番 『セーヌ河の日没、冬』(1880) 60.6×81.1

昔、最も憧れた、夕日の色。サーモンピンクといったら良いのか、あの少しピンクがかったオレンジ色の、蛍光の美しい色。多感であった高校生の頃に、一番掴まえたかった色のように思い出すあの色。そのオレンジを、掴まえた絵画。

ほんの一時でしかないあの日没の、刹那的な光の演出を、モネはやはり掴まえていた。映り込む水面の遠近を泳ぐ雲影の青さを、憧れてやまず、しかし手に留め置くことのできない時間の一部を、再現する努力に、圧倒された。

乾いた空気の街並みと川面と、光源から遠くまでも光で満たされた冬の情景。遠く昔の遠い町の、その空気や瞬間を、目の前でみることの出来る不思議。

憧れてやまない、絵画の軌跡が叶えられていた。

優雅な装飾フレームの向こうに、作家の切り取った風景が、そのまま存在していて、思い焦がれた。

 

いくつか、描きかけあるいは描き出しのように思える作品も並んでいたが。それを思うと、下書きのようにキャンバスに色を乗せながら、時間をかけてすこしずつ、本当の色を探して、これだという色に辿り着いていったのだろうか。

今では、いくつもの教本で、色彩論は語られ。光を表現・再現するには、反対色を近くに添わせるであったり、掠れるように上に重ねるであったりの手法のヒントは知る機会があるけれど。当時は、その手探りの出発点であったのだろうから。本当に多くの時間を費やし、光に色に魅せられて、答えを求め模索の日々だったのかも知れない。

 

 

展示34番 『チャリング・クロス橋』(1899) 65.0×81.0

上記で語った、日没の絵画より、更に空気を重点的に掴まえたような絵画。輪郭を捉えることを止め、光に満たされた時の背景を、切り取ったような絵。日々を行く中で、例えば多くの疑問や悩みを抱えたとして。そうした日々を生きながら、視界には眩しい光量の何気ない風景が広がっていた。そんなような。日常を生きている人々の視界に、当たり前に広がっていた風景、その気配のある絵。遠のいてみれば、あれは美しい景色だったと、日々を懸命に生きる人が、気付かずに包まれている風景。

 

この絵で、モスグリーンや海苔茶のような、緑色が使われているのを確かめた。クリームイエローも乱反射する雰囲気の中に多用されていた。

 

 

展示35番 『テムズ河のチャリング・クロス橋』(1903) 73.0×100.0

先ほどの作品より、夕日を後ろに光る輪郭で浮かび上がる雲や、水面の光が形をはっきりと描かれた絵画。といっても、境界線を持って描かれた訳ではなく。はっきりと冴えることが美しい風景の一コマを、筆痕をそのままに、鮮明な印象を色覚上に再現された絵画。先に書いた緑色も多く使われ、また、水面の跳ね返りを受ける橋の下部にはクリームイエローとその緑で、日差しの溶け込みが表現されていた。

中央の明るい部分に広く、遠目で同じそのクリームイエローが見えたのだけれど。近付くと、モスグリーンにかなり強いオレンジと掠れた白が乗っているように見えた。その点在された色彩で、目の眩むイエローが錯視されたのか、凹凸の表面に薄く、イエローが擦られてそう見えたのかは解らない。(印象派の意味合いからすると前者であろうが) 

浮雲も、近付けば紫であったり。目の前の光、色の交差で呼びこされる風景であるために、物販のカードやクリアファイルがどうしてもその印象と変わってしまうのは仕方なく、また寂しいところだった。

(特殊色版として、7万円ほどで販売されていたレプリカは、印刷とは思えないレベルに版で印象を再現していた)

 

 

展示番号不明 『睡蓮()

思いがいっぱいになってしまって、モネの展示終盤の作品の、展示番号を覚え忘れてしまった。

これまでの葛藤と努力、表現の経験値で再現可能の場面が増えて、今こそ描きたいと思う場面が多くあっただろう人生の先で。視力・体力の低下と戦うこととなったそのことを。ふと想像してしまったときの痛み。

目で見えるもの以外を、執拗に追うことなく、解ったように描くことなく、視力で捉える世界に忠実であった画家。その人が、視力を失い始めたとき。どうしても記憶や想像で、視力を補う場面が出てきたのだろうと想像する。しかしそれは、これまで築き上げた表現に反する作業であり、哲学を奪うものではなかたのだろうか。苦しさを想像し、足を進めていたところに、迎えた『睡蓮』。手前にピンクの華が浮いていて。蓮の葉の水面を揺らし浮かぶ形も、水面の奥行きも、丁寧に掴まえられた絵。

ああ、ここまで、真摯に掴み取ったのだと、また、その信念に驚かされる絵画。

 

 

 

描くということ、描きたいと願う衝動、そして絵画を前に動かされるもの。

人にもらい、人に与えたく、願ってやまないその生きる衝動を。

ここまで捉えた人の軌跡を、目の当たりに出来てよかった。

 

何やら最近また、私の周りが良からぬ感情で賑わっているようですが。

芸術の秋は唐突に涼やかに、私のもとへもやって来たのでした。

 

 

 

 

 

 

こうして、胸がいっぱいになり、集中力も切れたところに。

せっかくなのでと、回ったコレクション展。

下村観山の、驚くほどのセンスと天才的な技術。年代を見ると明治。とんでもない人もいるのだと、驚き喜びながら、疲労感に負け、惜しみつつも退場。

 

そのあと、中華街を回り小籠包を食べ。肉汁を人に飛ばし…(ごめんなさい)

眩い秋の日を楽しんだのでした。

えびせん抱えてパリパリしました。

 

昨日に引き続き、嬉しき日。

もっと、自分というものを大事に、生きていこう。

 

健康に生きましょう。

また。